「1、2時間山を歩いて、ええ枝を探すんや。枝が見つかったら、そんで8割は仕事が終わったようなもんやなあ。なっかなか、良い枝は見つからんなぁ。」
そう笑う辻村さん。山の中で暮らしている辻村さんであっても、良い枝を求めて山の中を探し回る。あとは投げ入れるだけ。選び抜かれたものだからだろうか。花入の中で、まるでそこにずっと前から生えていたような、そんな自然な美しさがある。
誰かを迎えるために、そんなに時間をかけて花を探すのか、、、。その心意気に、思わず息を飲む。その辺の枝をポキッと折って投げ入れただけ。一見そう見える。そんな穏やかな美しさ。華道家があれやこれやと手と技の限りを尽くして生けた「作品」のようや緊張感は微塵もない。
・・・。粗けずりな強い個性というものは、一つ間違えば下手となる。まさに紙一重なのである。下手にならずにいるのは、彼のうちなる伝統とも呼べるようなものが存在しているからだというような気がする。・・・・。彼は個性のひかりどころをよく知っている。それは個性の殺し方を知っているということでもある。
1989年の別冊太陽no.337の中で、川瀬敏郎さんが辻村さんについて書いた記事を目にする機会があった。(P.134 ~ P.135) なんだか妙に納得できた。辻村さんの焼物は一眼で辻村さんとわかるけれども、特異な形をしているわけでも、奇抜な釉薬がかかっているわけでもない。お茶を点てればお茶が美しく映え、手の中にすっぽりと収まり、お茶を抱きかかえているような気持ちになる。花を生ければ、あれだけ存在感を放っていた花入は、さながら名脇役のように花を引き立てる。個性が前面に出てきて邪魔することがない。